ドキュメントとして放映されたモンゴルの先生です。 笑ってしまいました、このシーンには。 |
「とうとう逢えた。やっと逢えた。『川の王者』の名にふさわしい威厳に満ちたイトウと」。として開高先生の『モンゴル大紀行』の一部を取り上げておりました。モンゴルの秘境で悪戦苦闘、釣果ゼロのまま最終日に劇的に《幻の巨大魚・イトウ》を釣り上げます。
ずいぶん前になってしまいますが、120分の特番として放映されたこともありますのでご存知の方も多いと思います。そのモンゴルという国を先生はこのように紹介しております。
「・・・しかし、だ。ここには草しか生えていない。
昔も今もそれは同じだ。
羊が草を食べて、その羊を人間が食べて、という関係だ。
食物連鎖ということから見ると、草と、羊と、人。
輪は三つしかない。
草の栄養が羊の肉に変わって、それが人体になる。
それだけだ。
雑草の主成分だけでジンギス・ハーンの軍隊は長征また長征、この中央アジアの大高原を突破し、バルカンを平らげ、東ヨーロッパを平らげ、あちらを呑みこみ、こちらを呑みこみ、ユーラシア大帝国を築くわけか。
草だけで。
草の栄養分だけで。
草と水さえあれば。
何と。それも根なしで。
草の葉だけで。なんと?・・・」。
テーマを少し変えます。昨今のウランバートルは見違える程の近代都市になっているようですが、「モンゴルの面積は日本の約4倍だが、人口は284万人」とコラム氏は書いております。「白鵬」に代表されるが如く、日本との友好関係が深い国でもあり、多くの学生たちが、勉学や技術習得のために日本に、栃木市にも来ております。一度だけ彼女たちと食事をしたことがございます。誇りと自信に満ちた生き方をしているな、と、素直に感心したものです。
開高先生があらゆる事象を見つめ、それを表現する手段として、たくさんの小説やエッセーを残しました。しかしその底流にはトラウマとしてのベトナム体験がございます。
「徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。
私はたたかわない。殺さない。
助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。
誰の見方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝
かせ、犬のように死ぬ。」
誠に次元の違う話と思うのですが、その体験があるかないかで決めるなら、私には何らの発言権もありません。ただ橋の下に少なからず、焦りと、何の役にも立たないどころか、日本はおろか世界中の雑草にも等しき無見識を晒した人がおります。今更何をいっても、ただ単にまたしても、軽薄をさらけ出した、というだけの話でしょうか。
開高先生の見つめる瞳の先に、思いを致したならば、と感じます。「橋の下を嗤う」というタイトルで書こうかと思ったのですが、遠慮しました。そんなに偉そうなことは、私も先生の瞳の先を考えた時、畏れ多いとまず思ってしまうのです。そこなのです。
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